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想像力は創造性を生ず [論理]

想像力は創造性を生ず

 理工学系の大学において、現在の科学技術の先端化とそれを支える基礎科学は、ある意味では強固な体系化の中で、閉塞感をもつことがあります。すなわち、ある分野では、学問として確立しているので、現象を数学的論理で原理から説明できます。たとえば、力学という学問を見てみます。それは、よく知られているニュートン力学として体系化されて、高校の物理の教科書にでてきます。これらの学問はあたかも、何の不思議も存在しないような気さえします。しかし、この原理で全ての現象を説明できるわけではありません。たとえば、微粒子間の相互作用力がニュートン力学だけで説明できません。さらに荷電粒子である分子では、電磁気学と力学からだけでは説明不可能です。それでは量子力学を用いて説明できるかというと、何らかの近似を導入しなければ、厳密にはできません。

 ここで見た科学の実態は基礎科学の立ち遅れと膨大な数の説明がつかない現象です。しかし、過去を振り返ってみると、科学の発展によって多大な恩恵を今まで受けてきました。説明できることも多々ありました。このような科学の成功から、新たな現象の説明が出来ることが、歴史を辿った「連続性思索」で可能かもしれません。それとも新しい原理・法則の創出が必要となるかもしれません。

 さて、今、ある実験をしたとしましょう。不思議な結果が出てきたときに、一体その原因は何か、考えて見たくなることがあります。つまり、ある想像を行い、仮説を立てたくなります。これらの全体像を見ると、結果を得て、あたかも川の流れの上流に向かい、原因を求める図が見えてきます。中でも、一般的な原理を仮定したくなります。このような考えの基本原理や上流の仮説を求める作業が、現在ではあまりされなくなりました。 それに対して、上流から下流への論法に従った研究は多くあり、応用問題として多く存在します。

 ここでもう一つ例えをしましょう。今、種々の食材があり、どのような料理を作りますか?という設問を考えて見ましょう。和食ですか、洋食ですか、それとも中華ですか。しかしながら、出来上がった料理は素材的には最初の食材を脱した新規なものではありえません。これはある制限を設けるとその条件の中で起こるものは制限内のことであり、その枠を超えた新規の発想は論理的にできません。

 ところが、このような三段論法とは異なる論理を展開してみましょう。あらゆる場合を尽くして法則を打ち立て、結果の論理性の完全性を述べるものです。科学技術の論理では前二つの論法が非の打ち所がない論理として確立してきました。二つの論理は歴史的な西欧の不合理な世界において相手を説得する防御手法です。このことを何と無く状況察知できます。

 しかし、新しい法則を求める出発点として展開可能の面が見えてきません。自己無撞着な完全性から新規な規則や論理を発見することは困難になります。そこで発見の論理のようなものが必要になります。「発見的推論」の始まりは自己撞着に陥る危険性をもっていますが、新しい論理の発見のための推論になります。

 ここでもう一つの論理を推論としてみてみましょう。科学では先ず実験事実があります。(result)また、それを支配する一般原理があります。(rule)その事実を説明する新しい仮説が、想像力を持って出されたときに、十分正当化できる理由をもっている。(case)この論理は、「Bである」「AならばBである」ゆえに「Aは確からしい」で構成されています。この論理は誤りを含むことがあるように思われます。「彼は色を好む」「英雄は色を好む」ゆえに「彼は英雄である」。明らかに誤っています。この作業をすると、昔はよく、それはspeculationであって論理的に誤っていると言われました。すなわち、「後件肯定の誤謬」(後件を肯定して、前件を肯定する)と言われました。

 しかし、もう少し考えてみると、ここでいう推論はあくまで仮説として存在し、拡大解釈や基本規則に違反するものではありません。そこにはアイデアもあり、可能性を否定する根拠はありません。ただ注意することは、そこで行われた推論は、演繹的な論理に裏付けられたり、帰納的に証明できるものとは異なるということです。

 さて、研究を始めようとするまたは研究を行っている学生にとって、科学技術の中で新しいものや原理・法則を創造するには、何か発見的な論理が必要になります。無闇に実験事実を羅列して法則性を見つけようとしても、無制限な項目に対して、無限個に近い数の実験をせねばならず、例外のない証明をするという完全性を言わなければならないのでこれは不可能です。この不可能と思える研究方法に対して、少数の実験事実を元に、ある原理や法則を仮説として設定し、その合理性を提案する方が現実的になります。

 この仮説形成作業には、事実に立脚した想像が必要です。想像は空想や夢想ではありません。想像は一般原理や規則に矛盾しませんので、論理的にはあり得る事です。未知の科学技術に挑戦する人にとって、自分の得た実験事実は極めて大切なものです。その事実に含まれる一般性まで拡張する規則や原理を創造する作業が残っています。「一を聞いて十を知る」「一の事実から十を想像する」作業は科学技術の大切さを認識するだけでなく、想像力が創造性をもたらす力となります。

 「実験は自然の答えを与える」。答えは単なる結果ではありません。次のステージへの大きな真理の欠片(かけら)です。これらの考え方や指針を、私自身の大学院学生から今までの経験の中で、潜在的にもち、ある時には顕在として明示してきたものをここで表現しておこうと思いました。

(補充改訂履歴:100402; 100401)

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円明寺の枝垂れ桜 「桜天蓋の下、暗黒の幹を登りて、華麗な花の先に、晴天を見る」


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