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南方熊楠と牧野富太郎 その3 [読書]

(その3)

牧野の文藝春秋に掲載された記事に関して,鶴見和子は著書(南方熊楠64-66pp, 1981講談社)において,牧野のようなアカデミーの学者(1939年の76歳まで東京帝国大学講師,自分から定年を決めた時代があった)が,南方の帰国後の論文発行の事実を,「調べもせずに,他人を悪しざまに,しかもその人が死んでしまって,反証が挙げられないことを承知のうえで,罵言するのであろうか。」と南方熊楠の受けた日本のアカデミーの仕返しを述べている(事実,南方は帰国後,Nature12/50報,Notes & Queries260/276報の論文がある。分母は総発行数)。ここで気をつけねばならないことがある。鶴見の指摘の趣旨は牧野の不正確さを非難することではなく(少しは非難する気持ちがあるのであろう),門外漢まで含め,無批判に権威のある人の言葉を受け入れる社会性にあることに注意しなければならない。 牧野が南方に最も近づいたのは,紀伊田辺へ出かけた時であった。周囲の人は南方を訪問するように勧めたが,年上の自分のところへ南方が来るべきとして,出向かなかった。南方は後ほど,あの時は折悪しく家内が病気で大いに失礼したと書いて牧野に送っている。牧野はその手紙を手許に遺していると追悼文に述べている。南方の生前までこの手紙を持ち続けたことは,牧野が南方に関心があり,牧野の植物収集・保存とも合わせて,牧野の性格を示していると思える。 

遡って,明治45年(1912年)に,南方は,「那智その他で採集の顕花植物標品424点を宇井縫蔵に託し,同氏より牧野富太郎に送」っている(南方熊楠全集の年譜)。これに対して牧野の論評があり,このことに,南方は宇井縫蔵宛ての手紙の中で,「此の牧野といふ人は顕花植物や羊葉類の鑑定は至て熟したものながら,甚だ狭い度量の人にして,しばしば人を傷つくるようなことを吐く」と批判している(土永知子,熊楠研究223-213,(記事は横書き左開きのため),南方熊楠資料研究会,1999)。この書簡は南方の牧野評と理解できる。

 

南方の研究に対する姿勢や考え方は,研究は周囲の環境に依存しない,不屈の真剣さにある,と思われる。他方,「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」と日本での学位や名声や権威などを軽侮していた。しかし,この言葉が牧野にとってかなり癇に障ったであろう。牧野は学位がなかったが(70を越えてから東大から博士号を授与されている),名声と権威を有していた。それは長年の努力の末に社会で認められるようになった。努力・忍耐・根気をもってすれば何事も成功するという農耕民族の理念に見える。然るに,南方は一極集中を脱し,多角的・総合的に本質を見ようとする。そこには,ずば抜けた記憶力と創造力に加え,パース仮説形成論理が見えてくる。別の見方をすれば,ダイナミズムを理解して本質に迫るやり方である。こんなアウトラインは適当かわからないが,牧野は植物,南方は動物を象徴し,いずれも生物であると単純化すると,朧げな姿が浮かぶ。 以上,南方と牧野の大きな差異を見出すことができた。南方に関しては,南方自身が,本質に迫る力強さを「脳力」(のうりき)という表現をしている(寺島実郎,「脳力レッスン」に脳力について述べられている)。牧野に関しては,牧野日本植物図鑑が全てである。さて,研究者のタイプを牧野型,南方型と二分したがることがある。分別はそれだけのことであるから許されるとしても,将来,そのような型を目指してはならない。二人の苦労と努力を無視したところには何も生えてこない。人間の可能性はそんな分別世界に閉じ込められるほどチッポケなものではない。 

最後に,南方精神に接すると,軽躁なものが目立つ現代社会において,研究に対する重厚な熱さをもっていた南方熊楠の気概が,より一層鮮明に感じられるのは不思議でない。

 

「完」

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