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南方熊楠と牧野富太郎 その3 [読書]

(その3)

牧野の文藝春秋に掲載された記事に関して,鶴見和子は著書(南方熊楠64-66pp, 1981講談社)において,牧野のようなアカデミーの学者(1939年の76歳まで東京帝国大学講師,自分から定年を決めた時代があった)が,南方の帰国後の論文発行の事実を,「調べもせずに,他人を悪しざまに,しかもその人が死んでしまって,反証が挙げられないことを承知のうえで,罵言するのであろうか。」と南方熊楠の受けた日本のアカデミーの仕返しを述べている(事実,南方は帰国後,Nature12/50報,Notes & Queries260/276報の論文がある。分母は総発行数)。ここで気をつけねばならないことがある。鶴見の指摘の趣旨は牧野の不正確さを非難することではなく(少しは非難する気持ちがあるのであろう),門外漢まで含め,無批判に権威のある人の言葉を受け入れる社会性にあることに注意しなければならない。 牧野が南方に最も近づいたのは,紀伊田辺へ出かけた時であった。周囲の人は南方を訪問するように勧めたが,年上の自分のところへ南方が来るべきとして,出向かなかった。南方は後ほど,あの時は折悪しく家内が病気で大いに失礼したと書いて牧野に送っている。牧野はその手紙を手許に遺していると追悼文に述べている。南方の生前までこの手紙を持ち続けたことは,牧野が南方に関心があり,牧野の植物収集・保存とも合わせて,牧野の性格を示していると思える。 

遡って,明治45年(1912年)に,南方は,「那智その他で採集の顕花植物標品424点を宇井縫蔵に託し,同氏より牧野富太郎に送」っている(南方熊楠全集の年譜)。これに対して牧野の論評があり,このことに,南方は宇井縫蔵宛ての手紙の中で,「此の牧野といふ人は顕花植物や羊葉類の鑑定は至て熟したものながら,甚だ狭い度量の人にして,しばしば人を傷つくるようなことを吐く」と批判している(土永知子,熊楠研究223-213,(記事は横書き左開きのため),南方熊楠資料研究会,1999)。この書簡は南方の牧野評と理解できる。

 

南方の研究に対する姿勢や考え方は,研究は周囲の環境に依存しない,不屈の真剣さにある,と思われる。他方,「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」と日本での学位や名声や権威などを軽侮していた。しかし,この言葉が牧野にとってかなり癇に障ったであろう。牧野は学位がなかったが(70を越えてから東大から博士号を授与されている),名声と権威を有していた。それは長年の努力の末に社会で認められるようになった。努力・忍耐・根気をもってすれば何事も成功するという農耕民族の理念に見える。然るに,南方は一極集中を脱し,多角的・総合的に本質を見ようとする。そこには,ずば抜けた記憶力と創造力に加え,パース仮説形成論理が見えてくる。別の見方をすれば,ダイナミズムを理解して本質に迫るやり方である。こんなアウトラインは適当かわからないが,牧野は植物,南方は動物を象徴し,いずれも生物であると単純化すると,朧げな姿が浮かぶ。 以上,南方と牧野の大きな差異を見出すことができた。南方に関しては,南方自身が,本質に迫る力強さを「脳力」(のうりき)という表現をしている(寺島実郎,「脳力レッスン」に脳力について述べられている)。牧野に関しては,牧野日本植物図鑑が全てである。さて,研究者のタイプを牧野型,南方型と二分したがることがある。分別はそれだけのことであるから許されるとしても,将来,そのような型を目指してはならない。二人の苦労と努力を無視したところには何も生えてこない。人間の可能性はそんな分別世界に閉じ込められるほどチッポケなものではない。 

最後に,南方精神に接すると,軽躁なものが目立つ現代社会において,研究に対する重厚な熱さをもっていた南方熊楠の気概が,より一層鮮明に感じられるのは不思議でない。

 

「完」

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南方熊楠と牧野富太郎 その2 [読書]

(その2) 

南方が亡くなった時に事件が始まる。単なる一般雑誌に掲載した牧野の追悼文であるが,南方の正当な評価を30年も遅らしたと言われるほどである。

当時,すでに大学者であった牧野が書いた記事は,南方が亡くなった次の年,正確には,16日経た時に投稿した文藝春秋19422月号)の追悼文である。南方の訃報を牧野は新聞で見て,驚いたことを述べ,「南方君には今日までその謡われ来たった声名に対して何等相応しい著述,すなわちそれは同君の存在を後世に伝うべき大作巨篇が一もなかったからで,これは是非ともその天資に酬ゆべき博識宏覧な筆を遺して置いて貰いたかった。」として,そのあとに,「実は同君は大なる文学者でこそあったが,決して大なる植物学者ではなかった。」としている。引き続いて,南方の粘菌の発見について,Minakatella longifila Lister一つの学名しか公にされていない。また,研究論文はイギリスにいた時,Natureへ投稿したもので日本での仕事がないと述べている。

南方の非凡ぶりを牧野自身は認めながら,自分よりも下に見たい気持ちの表れであろう。80才を越えた老人の戯言とは思えないのが熾烈である。牧野の小学中退の履歴には,自分の努力と植物学分類にかける情熱は並々ならぬものがあった。土佐から東京へ出てきて,東京帝国大学の植物学教室でお手伝いをしながら,助手にしてもらい,自身の発行しようとする植物学雑誌に教授とぶつかり,出入り禁止となっても何とか乗り切ってきた人である。

この牧野の追悼文に対する鶴見和子の批判も面白い。外国での経験が長い社会学者である彼女でこそ書ける文章である。

その3に続く。

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南方熊楠と牧野富太郎 その1 [読書]

 南方熊楠みなかたくまぐす18671941)の生きた時代は明治・大正・昭和に渡る新世紀への「梯」(かけはし)を示す日本の台頭の時であった。彼は博識であり、行動は奇想天外で,人が思いつかない発想をした。18ヶ国語を理解する語学力を有していたと思われる。また,彼の記憶力は並外れていて,日記に記したことを何十年も憶えていて,いつ,どんなことを誰が言ったと,言った本人が忘れていることを述べている。

 今まで,学者はある分野だけに優れているが広い分野に跨って業績を残すことは少なかった。それに対して彼の研究分野は広く,博物学・生物学・天文学などの自然科学分野,考古学・民俗学・宗教学の人文科学分野に及んでいた。

この時期に,日本の植物学において,著名な研究者が活躍していた。それは牧野富太郎18621957である。牧野は,今も発行されている牧野日本植物図鑑に象徴されるように,日本の植物分類学の象徴とも言える学者であった。

多くの名のある学者はほとんど大学教授の経験を持っている。当時の大学は,まだ東京帝国大学(今の東大)ができたところで,所謂国立大学は一つだけの時代であった。南方は大学予備門(東京帝国大学の前身)中に代数学の単位が取れないため,ドロップアウトしている。これはまともに出来ないのではなく,自分の興味を持たないモノには徹底的に時間を割かないことの表わしている。牧野に至っては,小学校の教えることがつまらないとして,中退している。その二人が研究者として,学問に新風を送り込んだのだから,学問の分野でのドリームを身近に感じる不思議さがある。

彼らに関する詳しい記録は,伝記や資料として遺されているが,南方と牧野との関係は直接会ったことがないのにお互いの評価は辛辣であった。しかし,別の見方をすると,彼らの性格や考え方の違いが浮き彫りにされ,特異な人格が見えてくる。

では,南方と牧野の類似した境遇とは,酒造業の生まれ,7歳ごろに「本草綱目」に接しているなど似た所がある。

自然界には「似た者同士が集まる」ことがよく見かけられる。水とアルコールは構造が似ているからどんな割合でも溶け合うが,水と油は溶け合わず,精々,分散して白濁するに過ぎない,バクテリアはシャーレ培養の中で似たモノ同士が集まってコロニーを作る。宇宙では粒子同士が万有引力によってお互いに近寄る。ところが,人間は違う所がある時に表れてくるから不思議である。

このあと,熾烈な記事や書簡がある。「その2」へ続く。

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全機 [読書]

全 機  普遍的自己

現成とは生きることである。
自己の内に、
「一時一物」として、命とかかわりを持たないものはない
「一事一心」として、命とかかわりを持たないものはない

ほんの一時であろうが、世に存在する物は、
時間の経過の中にそのあるべき姿として現存する。
たとえほんの僅かなことであろうが、その事自身に、
存在する本質的な意味がある。

科学からすれば、多数決の世界が正しいと思われるが、
本当に正しいのは、少数も含めた全体である。
生物を見れば、一旦、生を受ければ、生命そのものである。

「生は来にあらず、生は去にあらず、生は現にあらず。生は成にあらざるなり。
生は全機現なり、死は全機現なり」(原文より)

今あるものはあるものとして受け止めねばならない。
同じものでもなく、異なったものでもない、差別を超えた普遍的全体である。
科学的に差別することでその中にある普遍性を理解しようとするが、
普遍性はもっと別のところにあるという経験を生かすことである。

100823 記

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現成公案(げんじょうこうあん) [読書]

正法眼蔵
 現成公案 真理を実現すること

兎も角、この文章は理解するのが難しい。
科学という論理的な立場からすると、「表層的」に矛盾する記述が多々見られる。
仏像を見て、掌に何ものせていないのをどう解釈するか?
 この質問の答えが「全てのせている」である。「無」は「全ての可能性」を意味する。
 一つのものをのせると他のものがのらないからである。
 だから何ものせず全ての可能性を示す。
 これは具現と形而上の差異を示すと考えられる。
そこで、具象を対象とする科学が形而上のことにまで止揚できるか試みたい。

「解脱」は卓越することだけではない。
自らを客観的にして、自己否定するところに、
自分のことも他人のことも理解できる立場になる。

 科学者は自ら新しいことを始めている。ある考えで実験することもある。
 そして、結果に対する解釈を行う。その解釈から仮説を形成する。
 しかし、この説を全く否定する作業がいつも必要である。
 なぜなら、自らを客観的にみる。反面性から見直す作業が必要だから。
 すなわち、真実はそれではないのだから。

「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法をすすみて自己を修証するはさとりなり」
(原文より)

あれやこれやと思案するのが科学思考である。
ものごとの真実が「自然に」明らかになる状態へもってくる科学があって良い。

よく、科学は知的行為であると弁明される。
科学が知的行為だからといって、それが正当化されるものではない。
縦しんば、科学が知的行為として、それでどうした、といわれる。
つまり、科学は自己満足であってはならない。
では、科学は「全人格的な行為」であろうか。

このように、現成公案を読み、科学を考え直すときに、
 科学論の皮相さを感じざるを得ない。
 同時に、科学の新しいあり方を読み取れるような激励に出会ったように思われる。

100823記(第2改訂)

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正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)1 [読書]

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正法眼蔵

正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)は道元の書である。原著を読むにはかなりの時間と辞書に頼るところが多いため、現代訳を読むことにした。

現代訳「正法眼蔵」禅文化学院編、誠信書房、ISBN4-414-10118-2、¥2800 + TAX

この本に出会ったのは書店で立ち読みしたからである。何となく、読み出したときに、これは宗教とか倫理というものとかけ離れているように感じた。真実とは何か? 自分とは何か? 正しいことは何か? これは、自然科学を対象として、普遍性を認められるように感じた。

百読しなければ、身に付かないかもしれないが、3回の読み直しで、自分の検証を進めたく思う。

先ず、現成公案(げんじょうこうあん)から始める。

100809記


想像力は創造性を生ず [論理]

想像力は創造性を生ず

 理工学系の大学において、現在の科学技術の先端化とそれを支える基礎科学は、ある意味では強固な体系化の中で、閉塞感をもつことがあります。すなわち、ある分野では、学問として確立しているので、現象を数学的論理で原理から説明できます。たとえば、力学という学問を見てみます。それは、よく知られているニュートン力学として体系化されて、高校の物理の教科書にでてきます。これらの学問はあたかも、何の不思議も存在しないような気さえします。しかし、この原理で全ての現象を説明できるわけではありません。たとえば、微粒子間の相互作用力がニュートン力学だけで説明できません。さらに荷電粒子である分子では、電磁気学と力学からだけでは説明不可能です。それでは量子力学を用いて説明できるかというと、何らかの近似を導入しなければ、厳密にはできません。

 ここで見た科学の実態は基礎科学の立ち遅れと膨大な数の説明がつかない現象です。しかし、過去を振り返ってみると、科学の発展によって多大な恩恵を今まで受けてきました。説明できることも多々ありました。このような科学の成功から、新たな現象の説明が出来ることが、歴史を辿った「連続性思索」で可能かもしれません。それとも新しい原理・法則の創出が必要となるかもしれません。

 さて、今、ある実験をしたとしましょう。不思議な結果が出てきたときに、一体その原因は何か、考えて見たくなることがあります。つまり、ある想像を行い、仮説を立てたくなります。これらの全体像を見ると、結果を得て、あたかも川の流れの上流に向かい、原因を求める図が見えてきます。中でも、一般的な原理を仮定したくなります。このような考えの基本原理や上流の仮説を求める作業が、現在ではあまりされなくなりました。 それに対して、上流から下流への論法に従った研究は多くあり、応用問題として多く存在します。

 ここでもう一つ例えをしましょう。今、種々の食材があり、どのような料理を作りますか?という設問を考えて見ましょう。和食ですか、洋食ですか、それとも中華ですか。しかしながら、出来上がった料理は素材的には最初の食材を脱した新規なものではありえません。これはある制限を設けるとその条件の中で起こるものは制限内のことであり、その枠を超えた新規の発想は論理的にできません。

 ところが、このような三段論法とは異なる論理を展開してみましょう。あらゆる場合を尽くして法則を打ち立て、結果の論理性の完全性を述べるものです。科学技術の論理では前二つの論法が非の打ち所がない論理として確立してきました。二つの論理は歴史的な西欧の不合理な世界において相手を説得する防御手法です。このことを何と無く状況察知できます。

 しかし、新しい法則を求める出発点として展開可能の面が見えてきません。自己無撞着な完全性から新規な規則や論理を発見することは困難になります。そこで発見の論理のようなものが必要になります。「発見的推論」の始まりは自己撞着に陥る危険性をもっていますが、新しい論理の発見のための推論になります。

 ここでもう一つの論理を推論としてみてみましょう。科学では先ず実験事実があります。(result)また、それを支配する一般原理があります。(rule)その事実を説明する新しい仮説が、想像力を持って出されたときに、十分正当化できる理由をもっている。(case)この論理は、「Bである」「AならばBである」ゆえに「Aは確からしい」で構成されています。この論理は誤りを含むことがあるように思われます。「彼は色を好む」「英雄は色を好む」ゆえに「彼は英雄である」。明らかに誤っています。この作業をすると、昔はよく、それはspeculationであって論理的に誤っていると言われました。すなわち、「後件肯定の誤謬」(後件を肯定して、前件を肯定する)と言われました。

 しかし、もう少し考えてみると、ここでいう推論はあくまで仮説として存在し、拡大解釈や基本規則に違反するものではありません。そこにはアイデアもあり、可能性を否定する根拠はありません。ただ注意することは、そこで行われた推論は、演繹的な論理に裏付けられたり、帰納的に証明できるものとは異なるということです。

 さて、研究を始めようとするまたは研究を行っている学生にとって、科学技術の中で新しいものや原理・法則を創造するには、何か発見的な論理が必要になります。無闇に実験事実を羅列して法則性を見つけようとしても、無制限な項目に対して、無限個に近い数の実験をせねばならず、例外のない証明をするという完全性を言わなければならないのでこれは不可能です。この不可能と思える研究方法に対して、少数の実験事実を元に、ある原理や法則を仮説として設定し、その合理性を提案する方が現実的になります。

 この仮説形成作業には、事実に立脚した想像が必要です。想像は空想や夢想ではありません。想像は一般原理や規則に矛盾しませんので、論理的にはあり得る事です。未知の科学技術に挑戦する人にとって、自分の得た実験事実は極めて大切なものです。その事実に含まれる一般性まで拡張する規則や原理を創造する作業が残っています。「一を聞いて十を知る」「一の事実から十を想像する」作業は科学技術の大切さを認識するだけでなく、想像力が創造性をもたらす力となります。

 「実験は自然の答えを与える」。答えは単なる結果ではありません。次のステージへの大きな真理の欠片(かけら)です。これらの考え方や指針を、私自身の大学院学生から今までの経験の中で、潜在的にもち、ある時には顕在として明示してきたものをここで表現しておこうと思いました。

(補充改訂履歴:100402; 100401)

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円明寺の枝垂れ桜 「桜天蓋の下、暗黒の幹を登りて、華麗な花の先に、晴天を見る」


理論、観察、測定とコペルニクスに見る科学哲学 [読書]

自然には論理があり、それを明らかにするのが科学である。

コペルニクスが偉大な仕事をなしえたが、ほとんど晩年になって明らかにするという手段をとった。
何も秘密にしなくてもよいと思うのは、当時の状況を知らなさ過ぎる。
科学は宗教という力と戦い、論理という説得力を持って、普及に努めたのです。
そう思うと改めて科学の力強さを感じる。

さて、小学校の夏休みの自由研究はどのような考え方で行いますか?
大抵は、先ず、何が起こったか、何が起こっているかを観察しなさい。
そこには「なぜそうなるか」考えなさい。
再現する事柄から何か一般的なことを引き出しなさい。
その法則を応用して類似したことで予想しなさい。
平和な研究はそれで済むでしょうね。

現象の観察、言葉は単純ですが、何を診たら良いのか分かりません。
どこを見たら良いのか分かりません。これが集中豪雨なら、もっと真剣になります。
天気図を時間ごとに観察します。温度、湿度の変化を見ます。空を見ましょう。
風が、温度が、どの方向からどれくらい強く吹いていますか。温度湿度はどれほどでしょう。
動物の鳴く声が聞こえますか。これだけデータを集めても何も出てきません。
過去の例を引き出してきましょう。よく似たものがありますか?
ない。予測ができなくては科学も何もあったものでない。
取って置きの言葉 「異常気象」が出てきます。
これなら、鳥の鳴く声が騒がしい、クモが巣から葉の裏に移動した、
これらが理由をもって気象予報をする方が正確です。

何が言いたいか? 科学はデータを集めるだけではない。
過去の規則性から予想することでもない。などを知って欲しいことです。

コペルニクスの壮大な計画は、データ集めではなく、人が驚く結論を持っていることです。
宇宙の中で地球という存在を知った彼はその造詣を美と感じたのでしょう。

コペルニクスが天体の構成に美を感じたことを取り上げて、T.クーンは「趣味の世界」といった。
これに対して、内井惣七さんは、クーンがコペルニクスの著書を最後まで読まなかったために
究極の世界を取り違えた批判している。内井さんの「科学哲学入門」を半分読んだ時点であるが、
この評価は正しい。
パラダイムシフトを提唱したクーンについては後ほど登場する。

【追記】090824
July 14th, 2009 コペルニクス関係の名前に因んだ元素の発見がIUPACによって認められた。元素名 コペルニシウム(多分、英語の発音から片仮名はこのように決められるであろう) 原子番号112、水素の277倍の質量数を持つ。元素記号はCpである。(追記100219に示すようにCnとなった。) なお、最初の発見の研究グループ長Sigurd Hofmannはこれに同意した。また、原子番号111はレントゲニウム、Rgである。因みに、このドイツの研究所GSIチームでは107-111の元素も発見している。element 107, bohrium (物理学者ニールス・ボアの名から、Bh); element 108, hassium (発見研究場所のラテン名hassiaから、Hs); element 109, meitnerium (物理学者リーゼ・マイトナーの名から、Mt); element 110, darmstadtium (発見の場所(市)Darmstadtの名から、Ds);element 111, roentgenium (物理学者ウィルヘルム・コンラッド・レントゲンの名から、Rg)

【追記】100219
本日、IUPACはコペルニシウムの元素記号をCpではなくCnとすることを決めた。Cpは以前Luの代わりに使われていたり、シクロペンタジエンを表す記号として使われているため、混乱を避ける必要があった。1473年2月19日はコペルニクスの誕生日です。IUPACはこの日に因んで正式発表をした。

【追記】100226
本日、日本化学会より正式に片仮名の名称をコペルニシウムとすることの連絡があった。新元素の名前が決まるまで、こんなに長い道程があるとは驚きである。発見者の権利であるが、IUPACが認めるかどうか、に始まり、片仮名を日本化学会が決めるまでの間である。お目にかかれる元素ではないので、形式や統一だけの決まりが残るだけである。この点新種の生物の方が実物が見られるので迫力が違う。

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因果と法則に事象の振動を導入 [読書]

科学哲学に振動を導入

科学は現象の原因を辿り因果関係を明らかにすることに専念してきた。原因があるから結果が出るのは当然であるという論理である。逆に結果を目にして原因を調べる作業過程でもある。

ところで、因果関係という言葉の意味には、原因という事象と結果という事象は対等であると考えている。これは違う。結果は今、目にする現象であり、事象は一つである。つまり産物である。しかし原因は必ずしも単一事象ではない。

ここで、万が一、結果に極めて近い時点で、原因が一つあるとする。さらに、その原因が起これば、必ず結果が出てくるなら、論理的に結果は原因から演繹される。すなわち、原因がこうだから結果が出てきたのであると。そこでは因果関係の法則が成り立つ。

しかし、単純に原因・結果の単一性や連関性で結果を説明できることは極めて少ない。そこで登場するのが確率である。90%の確率で因果関係が証明できるとか、数例を除いて必ず起こる、という統計的議論である。

ここで、注意しておかねばならないのは、どうしてその確率数字が出てきたか、ということである。一つの結果に対して、多くの因果関係を示す関連原因の個々を場合の数として統計処理をして現れた数字が確率である。

もっと注意しておかねばならないのはその原因となる因子が統計の素因であるかということである。複数の因子を含む原因を画一的に一つの素因と看做すことはかなりの危険性を含む。幸いにも素因であると証明されたときに始めて統計手法は成り立つ。つまり、我々が持つ信頼性は統計数に依存する。

ところが、これらが正しく行われていたと仮定しよう。例えば、90%の確率で法則性があると言えたとしよう。このとき、10%の確率で起こらなかったのはなぜか、と疑問を挟む事が新たな因果論の出発点となる。同時に、帰納的確率論の本質に迫ることになる。

科学は偶然性を嫌う。なぜなら、偶然なら何も考えることはなく、単なる無法則であり、予言性が何もない。ここで、10%が無法則であるとすると、科学は10%を嫌うことではないと思う。

ここで、時間を考えてみよう。我々は原因探求のプロセスにおいて、遠い大本を辿るよりも、一つ前の時点での因果関係を調べる作業をする。これは結果という一枚の写真の少し前の写真を求めている作業である。端的に言えば時間軸に対するコマ撮りから連続性を打ち立てている。確率的に言い換えると、一つ前の写真が結果と関連するのが90%あり、残り10%は無関係となるという、単純例を考える。関係があるとか、ないとかいうのは、その事象の結果などにおける、事象との「つながり」であると考えられる。

そこで、事象間の「つながり」を考えてみよう。事象間の「つながり」は個々の事象が持つ独自性と協調性に深く関係している。別の視点から述べると、個々の事象の振動数の類似性と位相の同期性に依存すると考えた。

振動数が合えば共振や共鳴現象が見られ、位相が揃うと干渉をする。個々の事象は固有振動をしていると解釈すると偶然性の起因を求めることができそうである。

この考え方は統計的帰納論に矛盾するものではない事は容易に理解できる。従って、従来の科学哲学に無意識下で使われていた時間という概念を顕在的に使う必要性もでてくる。振り返ってみれば、今まで、静止物体を考え、点と点を線でつないできた。この事象と事象を線でつなぐ作業は巨視的には点と線で成り立つとしてよい。しかし、確率的には「事象の振動」と捉えるのが動的解析であり、無関係の関係を論理的に説明でき、得られた結果を原因とする次の事象の出現予告に発展するであろう。

 
 事象の振動についてはもう少し深く考えて見なければ普遍性をもたらすことはできない。思索において時間という概念を導入することは新しい考え方が出現する引き金となるであろう。

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花菖蒲

科学的説明と創造 [読書]

科学的説明を理解しても創造に必ずしも結びつかない。

説明、それは後付けである。論理的に結果がわかっていてその理由を聞くのは耐えがたい。
「駄目なものは駄目」「言い訳は聞きたくない」の領域から脱出したいものです。

こんな一般的なことが科学の世界で起こっている。何度も経験している。
例えば、分子軌道の計算である。分子のある原子配置である状態が安定であるかどうかを実験をせずに計算をして求める。計算機の進歩とソフトウェアの使い易さで、ボタンをポンで計算結果が出てくる。ただ、安定な状態がこうだから、この構造で説明できる、と発表されると、カチッと頭に来る。こんな馬鹿さ加減と一緒になって質問などする気さえしない。冷静になって対応を考える。
1.計算結果の誤差はどれくらいと見積もれるのか?
2.理論的な仮定を行っているが、その仮定の正当性はどの程度と見積もれるのか?
3.結果が初期状態の設定によってどの程度それに依存するのか?
4.通常、エネルギー極小値は複数生じるが、多元空間での選択の妥当性を検証したか?
まだ、モデルの設定、中間性、外因性など数多く質問点が残る。
こんなことを質問すると、答えが「計算結果が結果のだから」といわれてしまう。実験結果に合うから合理的であるといわれると、それは実験の寄生虫でないでしょうかと言いたくなります。

計算は単純な方が良い。本質を考える素地が整理されているからである。口数の多い雑音に本質を思索するのを妨げられないために。
よく科学哲学に現れるニュートン力学であるが、これほどのものよく考えたものだと振り返る。頑なな、思慮深い、想像性豊かな、ニュートンの姿の原点を求めたく思える。ちょっと考えてみてください。リンゴが木から落ちるのを見て(本当かどうか疑問だが)どうして万有引力を考え出すことができるでしょうか。科学者はそれをしなければならないのです。それが創造になるのです。

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ひるがの湿原植物園のヒツジグサ

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